2011年6月5日日曜日

伝説の海賊「黒ひげ」の錨


















● 黒ひげの旗艦「クイーン・アンズ・リベンジ号」の3つのいかりの1つ



ソマリアの海賊を検索していたら「伝説の海賊 黒ひげ」なるものが出てきた。
CNNニュースから。


CNN.co.jp 2011.05.28 Sat posted at: 16:28 JST
http://www.cnn.co.jp/fringe/30002893.html

伝説の海賊「黒ひげ」船のいかりを回収 米調査隊


(CNN)
ノースカロライナ州沖の海底を探索している同州の調査隊は27日、18世紀に活躍した伝説の海賊「黒ひげ」の旗艦のいかりを回収した。
このいかりは黒ひげの旗艦「クイーン・アンズ・リベンジ号」の3つのいかりの1つで、重さは3000ポンド(約1360キロ)ある。

クイーン・アンズ・リベンジ号は1718年にノースカロライナ州ボーフォート沖の浅水域を航行していたと考えられている。
同船は1996年に発見され、数年前から段階的に船に積まれている品の回収作業が行われている。

この探索は、18世紀に使用されていたさまざまな品の発見、回収することを目的としており、発見された品は教育や海底保存活動のPRに利用される。
すでに大砲、金貨、大皿、コップなど25万点以上の品が回収されたという。
6月11日には、ノースカロライナ州ボーフォートにあるノースカロライナ海洋博物館でクイーン・アンズ・リベンジ号の残骸から回収した品の展示会が開催される。

3月にスミソニアン誌のサイトに掲載された記事によると、クイーン・アンズ・リベンジ号には約22万5千発の散弾と少なくとも25門の大砲が積まれていたことが判明しており、その多くは今も積まれているという。

「黒ひげ」とよばれたエドワード・ティーチはイギリスで生まれ、北アメリカ大陸の大西洋側の沿岸や西インド諸島周辺の航路を航行する船を襲った。
1718年11月、黒ひげ(当時30代後半だったと見られる)はイギリス海軍との戦いで死亡。
この時、彼はクイーン・アンズ・リベンジ号ではなくアドベンチャー号という別の船に乗っていた。

ノースカロライナ州沖の海底を探索している同州の調査隊は27日、18世紀に活躍した伝説の海賊「黒ひげ」の旗艦のいかりを回収した。
このいかりは黒ひげの旗艦「クイーン・アンズ・リベンジ号」の3つのいかりの1つで、重さは3000ポンド(約1360キロ)ある。


では、この海賊「黒ひげ」とは。
もちろん日本語版のWikipediには載っていなかった。
ナショナルジオグラフィック日本版から。


ナショナルジオグラフィック日本版 2006年8月
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/feature/0608/index5.shtml
















文=ジョエル・K・ボーン Jr. 写真=ロバート・クラーク

19世紀初頭、米国東岸とカリブ海を席巻した伝説の海賊「黒ひげ」。
ノースカロライナ沖の沈没船調査の結果から、その実像に迫る。

海岸の遊歩道にしつらえた手術台で、18世紀風のぼろ布をまとった海賊が、今にも片脚を切り落とされようとしている。
ここは米国バージニア州の港町、ハンプトン。
うだるような6月の午後、哀れな海賊が屈強な仲間4人に押さえつけられ、悲鳴を上げて身をよじると、見物客は大喜びだ。
傷めた足がのこぎりで “切断”されると、木製の義足がくくりつけられる。
次の瞬間、血の色をした飾り帯を締めた黒ひげの男が、芝生の向こうから悠然と姿を現した。
男は赤ん坊を連れた若い母親をぎょろ目でにらみ、「こりゃかわいいや」と砲声のようなだみ声を上げる。
「赤ん坊のほうも悪くねえな」

この黒ひげの男は、ハンプトンで毎年開催される「黒ひげ祭」の主役。
こわもての海賊「黒ひげ」は、『ピーター・パン』のフック船長や『宝島』に出てくる一本足の海賊ジョン・シルバーのモデルとされている。
映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』で海賊を演じるジョニー・デップや、黒ひげ祭で主役を務めるベン・チェリーのおかげで、昨今ますます人気が高まっている。

バージニア州の南、ノースカロライナ州では、黒ひげが壮絶な最期を遂げた海で、考古学者たちが沈没船を調査し、その生涯を解明しようとしている。
北はペンシルベニア州から南はカリブ海まで沿岸の人々を恐怖に陥れた黒ひげも、この地方でだけは好意的に迎えられている。
今でも地元の土産物店や宿屋、バーなどに集う人々の間で、黒ひげの伝説は健在だ。
大胆不敵な黒ひげは降伏を潔しとせず、マスケット銃の集中砲火に倒れた。
伝説によれば、海に投げ出されてからも、その亡骸は水中に没する前に、船の周りを3周したという。

黒ひげと呼ばれた男、エドワード・ティーチの出自は明らかではない。
『ロビンソン・クルーソー』の作者デフォーと同一人物という説もあるチャールズ・ジョンソン大佐は、1724年の大著『英国海賊史』で、英国ブリストル出身と記した。
黒ひげ伝説の大半は同書が基になっている。
ティーチは、英国王に敵船の略奪を許された私掠船の乗組員から海賊に転じたという。
当時の英国にはティーチと同じような船員上がりの海賊が何千人もいた。
なにしろ1隻襲撃すれば、稼ぎは当時の金額で2万ポンド(現在の約5億円)に達することもあったのだから無理もない。
山分けしてもその取り分は、堅気の船員が生涯に稼ぐ金額の何倍にもなったのだ。

ティーチが海賊として名をはせたのは1716年、ベンジャミン・ホーニゴールド大佐という有力な海賊の下で帆船を指揮していた頃だ。
ティーチはほどなくホーニゴールドの傘下を離れ、スティード・ボネット少佐と連合船団を組む。
ボネットはカリブ海の島、バルバドスの裕福な農園主だったが、口うるさい妻から逃れるために海賊になったと伝えられている。
ティーチの指揮で、二人の船団は、現在のキューバのハバナから米国東岸のデラウェア湾の海域を席巻し、11隻の船を捕らえた。

カリブ海のセント・ビンセント島付近で、ティーチはフランスの奴隷船ラ・コンコルド号を襲ったことがある。
相手が投降すると、ティーチはベキア島という小島に乗組員や奴隷の大半を下ろし、小さな帆船と数トンの豆だけを残して置き去りにした。
奪った大型の奴隷船には40門の大砲を据え付け、船名を“アン女王の復讐”と改めた。
こうして当時のカリブ海で最大最強クラスの海賊船を手に入れたティーチは、意気揚々と出帆していった。
その時から1年以上に及ぶ、歴史に残る略奪の旅が始まった。

それから3世紀後、米国ノースカロライナ州ビューフォートのアトランティック・ビーチでは、州立海事博物館の海洋考古学部長デビッド・ムーアが潜水装備に身を固め、2キロほど沖合いの調査船上にいた。
澄んだ海流が一時的に流れ込んだおかげで、普段は濁ってほとんど視界の利かない水中が、2メートル近く先まで見える。
ムーアと同僚は小躍りせんばかりだった。
海面下およそ7メートルの海底には、一部が流砂に埋もれた船の残骸が沈んでいる。
この沈没船こそが黒ひげの旗艦、「アン女王の復讐号」だと、ムーアらは考えている。
この船は、宝探しを専門とするトレジャーハンターたちが1996年に発見し、マスコミに大きく取り上げられた。
その後、船は州当局に委譲され、考古学者や博物館員が少しずつ積み荷を引き揚げてきた。
将来は海事博物館に収蔵する予定だ。

「こいつはいいぞ」とムーアが言う。
「こんな好条件の日は年に20日もない」。
海に潜ると、海底に半ば埋もれた錨が見えた。
ムーアは船体を安定させるバラスト用の石の山や大砲の部品、緑色のイソギンチャクに覆われた巨大な二つの錨のほうへ泳いでいく。
積もった砂を手で払うと、黒っぽい木製の船体が現れた。
この沈没現場から引き揚げられた積み荷は数千点にのぼる。
スペイン製のブロンズの鐘、子豚の丸焼きも載せられそうな大皿、英国製のラッパ銃の銃身。
梅毒患者の治療に使うフランス製の尿道洗浄器まであった。
いずれも当時の商船のありふれた積み荷だが、大砲や手榴弾も出てきたことから、海賊船である可能性が高いと、プロジェクトを指揮するマーク・ワイルド=ラムシングはみている。

「これまでに24門の大砲を見つけました。まだ埋まっているかもしれません」
と、ワイルド=ラムシングは語る。
通常の軍艦や商船をはるかに上回る重装備だ。
小型の大砲は、黒ひげが船から持ち去った可能性もある。
一部の大砲は引き揚げて修復したが、大きさはまちまちで、いずれもヨーロッパ製だった。
その多くには典型的な海賊の砲弾、ボルトや大小の釘、バーショットという二つの鉛球を木の棒でつないだ武器などが装填されたままだった。
黒ひげが火炎瓶にしたという、角形の瓶の破片もあった。

1718年の春、黒ひげは4隻の海賊船を率いて北に向かった。
小船団ながら手下の数は400人、大砲の総数は60門を超えていた。
黒ひげが狙いをつけたのは、現在のサウスカロライナ州チャールストン。
植民地時代には屈指の富を誇った町だ。
黒ひげは大胆な計画を実行に移す。
町全体を海上封鎖したのだ。
1週間足らずで港に出入りする9隻の船を捕らえ、1500ポンド(現在の価値で約4000万円)を奪った。
人質の中には、州知事直属の諮問委員も含まれていた。
町を意のままにできたはずの黒ひげだったが、知事に要求したのは、なんと医薬品の行李一つだけだった。

「この一件までは、黒ひげは単なるごろつきの一人だったんです」
と、沈没船を発見した元トレジャーハンターのマイク・ダニエルは言う。
「チャールストン港の封鎖はさしずめ、米国の同時多発テロで世界貿易センタービルが攻撃されたようなものでした。
世界中の注目を集める大事件だったわけです」

ジョンソン大佐の記述によると、黒ひげは注目されるのが大好きだった。
燃える瞳と轟くような声をもつこの巨漢は、深紅のマントを愛用していた。
戦いに飛び込む際には点火した導火線を髪にからめ、胸には6丁の拳銃を吊り下げた。
ラム酒に火薬を注ぎ込み、火をつけてから飲み下すのが好きだったとも言われている。
こんな逸話もある。
ある晩、手下数人と自室で飲んでいた黒ひげは、突然ろうそくを吹き消して、2丁の拳銃でテーブルの下を手当たり次第に打ちまくり、航海長のひざを打ち抜いた。
時折手下をひどい目に遭わせるのは、
「俺様が何者かを思い知らせる」
ためだったという。

チャールストンの海上封鎖から数日後、黒ひげはアン女王の復讐号で現在のビューフォート湾に入ろうとして、座礁してしまった。
わざと座礁させたという説もある。
黒ひげは配下の海賊船アドベンチャー号に救出を命じるが、ほどなくアドベンチャー号も座礁の憂き目を見ることになった。
背信の時が近づいていた。
黒ひげは相棒のスティード・ボネットを言いくるめ、ノースカロライナ州知事の大農園があるバースへと向かわせた。
知事を介して、英国王からの恩赦を得るという口実だ。
体よくボネットを追い払うと、黒ひげは40人の忠実な手下と60人の奴隷を動員し、アドベンチャー号とアン女王の復讐号から金目のものをかき集めた。
仲間の取り分をごまかしつつ分配し、恩赦の条件に従って引退するために、自らもバースへ船を進めた。

ノースカロライナは隠れ家にうってつけの場所だった。
先住民との戦いや黄熱病、政争で疲弊し、州兵の召集もままならず、刑務所すらなかった。
浅い入り江や砂州の島々は、裕福な近隣の州から来る商船を軽量の海賊船で襲うには理想的だった。
黒ひげは引退を早々に撤回した。
川や入り江で地元の船を略奪し、バミューダ沖ではフランスの砂糖運搬船を襲った。
海賊仲間のチャールズ・ベインとノースカロライナ沖のオクラコーク島で合流した際には、200人の海賊が1週間、飲めや歌えの大騒ぎを繰り広げたという。
バージニア州知事のアレクサンダー・スポッツウッドは、ついに堪忍袋の緒が切れた。
海賊たちがオクラコーク島に砦を築いているとの噂を聞いて、スポッツウッドは水陸二つの部隊に、黒ひげの捜索と逮捕を命じた。

11月21日の日没近く、2隻の帆船と60人の部下を従えたロバート・メイナード大尉は、オクラコーク島に停泊中の黒ひげを発見した。
船の上には20人ほどの手下しかいなかったが、英国王からの赦免状を得た黒ひげは不安がる様子もなく、地元の商人と深夜まで酒を飲み続けた。
厄介な事態になりそうだと感じた手下が略奪品の隠し場所を尋ねると、黒ひげは、それを知るのは悪魔と俺だけだと怒鳴ったという。
「どっちか長生きした方が、全部を手に入れるってことよ」。
以来、300年にわたって捜索が続けられているが、いまだにその財宝は見つかっていない。

夜が明けると、メイナードは英国旗をたなびかせて黒ひげの船に接近した。
黒ひげは怒りで血が煮えたぎった。
「おのれ、ならず者めが。何者だ、どこから来た」。
黒ひげの怒号に、メイナードは冷静に答えたという。
「海賊でないことは、この旗の色を見ればわかるだろう」
黒ひげは杯を干し、メイナードらを「腰抜けの犬ころめ」と罵倒すると、最後の呪いの言葉を吐いた。
「地獄に堕ちても、貴様に情けはかけんぞ。
命乞いもせん」「こちらも同様だ」
とメイナードも応じた。

その後の戦いで何が起きたのかは、よくわかっていない。
ものの本によれば、黒ひげ側の大砲の一斉射撃で、メイナードの部下の半数近くが死傷したそうだ。
海賊船ごと捕まえることはできないと判断したメイナードは、残った部下を下層甲板に潜ませ、海賊をおびき寄せた。
黒ひげ一味はまんまと計略にかかり、手榴弾を投げ入れてから、メイナードの船になだれ込んだ。
そこにメイナードの部下がハッチから飛び出した。
黒ひげは一直線にメイナードに向かって走り出す。
同時に火を噴く二人の拳銃。
黒ひげは的を外したが、メイナードの弾は黒ひげの胸に命中した。
それでも黒ひげは倒れず、短剣を激しく振り下ろし、メイナードの剣をへし折った。
その瞬間、背後からの剣を首に受け、黒ひげはよろめいた。
最後に拳銃を取り出したが、引き金を引く力はなかった。
甲板に崩れ落ちた時には、5発の銃弾を浴び、20カ所以上、刺されていたという。

メイナードは黒ひげの首を切り落とし、船首に吊した。
胴体は海に投げ込んだが、地元の言い伝えでは、今でも月夜の晩になると首を探しにさまようという。
ジョンソン大佐によれば、黒ひげの首は
「当時凶兆とされていたどんな彗星よりも米国を震え上がらせた」。
その首をメイナードはハンプトンの基地に持ち帰り、さらし首にした。これが現在の黒ひげ祭の起源だ。

「凶悪な海賊」という評判は、黒ひげ自身が奸知をもって広めたもの。
それによって、実に多くの船が、さしたる抵抗もせずに投降した。
歴史家のリンドリー・バトラーは、
「怖ろしいという評判が立つことで、黒ひげの仕事は楽になったのです」
と言う。
ただ、その評判が最後には彼を追いつめたのだとも、バトラーは言う。
スポッツウッド州知事は「世界一凶悪な海賊」が身近でのうのうと暮らすのを許せなかったのだ。

最後に、バージニアやノースカロライナに伝わる黒ひげ伝説を、もう一つ紹介しよう。
1718年にビューフォート湾を荒らし回った黒ひげの手下のうち、およそ200人は逮捕もされず、裁判にもかけられず、どこへともなく姿を消した。
その海賊たちの声は、今でもオクラコーク島やハーカーズ島の釣具店や港に響いている。
地元の人々の方言は、海賊の黄金時代に使われていたエリザベス朝の言葉にそっくりなのだ。
もし島を訪れた際、島民にいきなり金品を奪われ、豆の袋と一緒に置き去りにされても、どうか驚かないでいただきたい。



でもやっぱり「海賊」といったらこれ。



























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